F1 パワーフォース
日本人ドライバー列伝
中嶋悟
     F1 日本人ドライバー列伝  中嶋悟(1987-1991)  F1パワー・フォース 
更新履歴
ドライバー名
中嶋悟
鈴木亜久里
片山右京
井上隆智穂
中野信治
高木虎之介
佐藤琢磨
スポット参戦
鈴木利男
野田英樹
井出有治
山本左近
76,77年富士
テストドライバー
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中嶋悟 日本人初のフルタイムF1ドライバー。
 中嶋悟選手のF1ドライバーとしての評価は極めて難しいものがあります。理由はとても簡単です。実際に参戦し始めた年齢が通常は引退をする、もしくは引退を検討し始める時期に当てはまることが理由なのです。日本経済自体がフルタイムF1ドライバーを誕生させる余裕もなければ企業の側にもF1に理解を示すところも少なく、中嶋選手が全盛期と言える年齢の時にはなけなしのお金をはたいてヨーロッパF2に参戦することで精一杯でF1など夢のまた夢といった状況だったことが彼の才能が完全にF1の中で生かされなかっただろうということが容易に推定されます。もし中嶋選手の全盛期がバブル経済に当てはまっていたらと考えると案外日本人によるF1優勝がなされていた可能性は0(ただし当時のF1はとてつもなく優秀なドライバーが揃っていたのでそう簡単には優勝などできる状況ではなかったのだが)ではないような気もする。実際に1981年の日本のF2シリーズの最終戦でティエリー・ブーツェンやステファン・ヨハンセンを押さえ込み優勝しているのだ。可能性自体はこの時から参戦ということがあれば本当にあったのかもしれない。翌1982年はなんと日本とヨーロッパのF2選手権に同時エントリーという今では全く考えられないことにチャレンジしている。ただし結果は芳しくなかったのだがシルバーストーンにおけるF2第1戦において後にティレルでF1参戦を果たしながらも1985年のスパにおける耐久レースにおいてオールージュでクラッシュし亡くなったスティファン・ベロフ(1984年の雨のモナコでセナについで3位入賞している・・・後に抹消)についで2位という素晴らしい成績を上げている。その後は日本で1985年まではF2中心に参戦を続け1984、1985年はF2チャンピオンを獲得している。1986年に再びヨーロッパにチャレンジしシリーズ10位であった。このときも国内レースとの掛け持ちをしていたためか成績はイマイチであったが日本とヨーロッパのレースの掛け持ちであった事を考えると充分な成績といえるのかもしれない。この年の8月のオーストリアにおけるF2選手権で4位グリッドについた中嶋選手に何気にかけよったのが故アイルトン・セナ選手で、これがこの2人の最初の出会いであったといわれている。1987年念願のF1シートをキャメル・ロータス・ホンダという恵まれた待遇で手に入れたが、チームメイトがセナということもあり当然ながらその比較では歯が立たず選手権ポイント7でランキング11位という成績であった。1988年になるとセナが移籍しその後釜にはなんと世界チャンピオンのネルソン・ピケ。残念ながらこの当時のロータスはアクティブ・サスペンションの開発という難題を抱えた状況であったためわずか1ポイントでおわりランキングもも16位に後退する。翌1989年はロータスとホンダの契約が切れエンジンがプライベーターのジャッドV8に変わりスパでは2台とも予選落ちという凄まじい不振をかこうことになる。ただし最終戦の雨のオーストラリアでは現在までのところ日本人唯一のファステストラップをマークし4位入賞する。そして様々な噂の中、ティレルに移籍し3レースで6位入賞を果たしランキング15位となる。そして最後となった1991年は2ポイントを上げランキング15位となり引退していった。このときの日本GPは大変な騒動に巻き込まれ一般のニュースにも取り上げられるほどであった。現在は自身のチームを率いて国内選手権に参戦中だ。
各年度成績 1987 1988 1989 1990 1991

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