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中野信治 エンジンのひも付きでF1あがるもチャンス生かせず |
ジュニア・フォーミュラの時代から随分恵まれた状況にありながらも結局なんら結果が出なかった今では存在すら忘れられ始めているドライバーだ。何しろなんら特徴がなく速くもない、たまに速いときもあるが走りこんだサーキットもしくはたまたま本人に合っているときだけという程度でしかないのがかなり悲しいところだ。残念ながらポイントは獲得しているのだがあくまでもチームメイトはかなりの周回数をトップランするという凄い状況の車だったという事を考慮しなければならない。佐藤琢磨選手を除けば過去最高の車を得ながら2ポイントしかとれないというところに彼の限界があったのだろう。デビュー時のプロスト無限ホンダに中嶋選手、鈴木選手、片山選手が乗っていたら20ポイント以上軽く稼ぎ出したかもしれない、高木選手でも8ポント程度は確実に稼げていただろう。井上選手と比較するのは問題があるかもしれないがハートエンジンというとんでもない代物でそれなりに走った彼の方が私は評価を上にする。正直かなり日本のF1界にとって彼は最大の戦犯といってもかまわない状況だと思う。1996年フォーミュラ・ニッポンでランキング5位で97年F1デビュー。春先のテスト段階では日本の報道は好意的ではあった当時の監督はチェザーレ・フィオリオ。フィオリオはまだある程度相手にしていたようだがオーナーがプロストになり一気に相手にされなくなった。エマニュエル・コラールというフランス人ドライバー(ジュニア・フォーミュラではそこそこの成績を出している)を乗せたがっていたフランス側がたいした成績を出せそうもない中野選手を降ろしたいという意向も働いていたことも事実だがパニスが優勝争いに顔を出し、トゥルーリは派手なトップランをしているのを見るとプロストの考えは正しかったのだと思う。残念ながら1年で解雇され翌年は片山右京選手にシートを譲ってもらいF1残留をするが・・・・・・・・・。 |
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1998年片山選手にシート譲られたとしか思えないような経緯でミナルディから出走。チームメイトは19歳のアルゼンチン人ドライバーで前年フォーミュラニッポンに参戦していたエスティバン・トゥエロ。当然のことながらF3000ですらまともに操れないドライバ−と対すれば予選はぶっちぎりで駆ったとしてもおかしくない状況なのだが相手に予選で6勝もされたしまっていた。但し見せ場もこの年は作ったのだが1度だけ。カナダGPの7位完走は頑張ってはいたがこれが片山右京選手なら抜いただろうとしか思えない感じがありその場はよくとも後で考えると・・・・・・の典型的な例になってしまう。(ヤンマグヌッセンぐらい抜け!かつヤンはこのレースを最後にスチュワートGPを解雇されている。まあ・・・・・・・・やっぱりね)ということで当然ながらミナルディからすらオファーなく当然のことながらシート喪失。やっぱり一発の速さのないドライバーではF1は務まらないっという真実を証明しただけのドライバー扱いをこの後されていく。 |
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1999年ジョーダンのテストドライバーに起用されるが存在感なくこの年限りでF1脱落。ちなみにこの年デイモン・ヒルの引退騒動がありその後釜に無限が押すがエディ・ジョーダンに相手にされず。ヒルも中野に変わられるのではという考えで最終戦まで走っていた。F1にいながらF1失格最低を受けていた感じが強い。 |
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