F1 パワーフォース
日本人ドライバー列伝
 F1 日本人ドライバー列伝 1987年から2007年まで F1パワー・フォース 
更新履歴
ドライバー名
中嶋悟
鈴木亜久里
片山右京
井上隆智穂
中野信治
高木虎之介
佐藤琢磨
中嶋一貴
スポット参戦
鈴木利男
野田英樹
井出有治
山本左近
76,77年富士
テストドライバー
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F1パワーフォース
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F1おける日本人ドライバーの紹介
 1987年のホンダのバックアップによる中嶋悟選手
フルタイムドライバーとしての参戦以前は1976年及び1977年において
富士スピードウェイにおけるF1イン・ジャパン開催時の
大量スポット参戦しかなく、また経済的にも海外へ自動車レースへの
ドライバーの参戦というものは全く考えられる状況ではなかった。
そういう状況であっても海外進出しF1参戦を目指したドライバーも
実際にはいたが残念ながらそれはその下のカテゴリー
(当時はF2)での参戦でとどまることが多く
(但し当時はF1ドライバーがそのままF2に参戦することもあったため
現在よりも高いレベルであったことは容易に想像ができる)
、またその動きを支えようとする日本企業も少なく、
また自動車メーカーでさえホンダがなんとか参戦していたというような
(といっても既にマシンはF1での優勝を果たしていたのだが)状況であった。
ところが1987年のホンダがエンジンサプライヤーという立場を利用して
ロータスに
中嶋悟選手を押し込むことに成功したことが
この状況を一変させるのであった。日本人でもF1に乗ることが出来た。
このことはその後の日本のレース界にも大きな刺激を与え、
この流れに合うかのような日本経済がバブル経済という
わけの解らない金余り状況にな、り一般社会においても
F1ブームというものが起こった。このことは日本の様々な
自動車メーカーのF1参戦の検討や
実際にエンジンサプライヤーとしての参戦ということも巻き込み、
個人にも大規模なお金がスポンサーとして入り込むことが
容易になったことが次々とF1ドライバーを生む事になっていった。
その後全日本F3000を制した
鈴木亜久里選手
1988年の日本グランプリにスポット参戦をラルースから果たし
、翌年から(但し全戦予備予選落ち)はザクスピードからフル参戦し
1990年の日本グランプリでは日本人初の表彰台に立つという
快挙を成し遂げている。その後を追いように1991年の全
日本F3000を制した
片山右京選手がF1参戦を果たしている。
それなりの成績を残したこの3名はF1におけるパイオニア
として評価は高いが、その後スポット参戦や、日本国内タイトル
すら獲得していない選手のF1参戦により一気に日本人ドライバーの
暗黒時代が訪れてしまう。地力でスポンサーを集めF1にたどり着いた
井上隆智穂選手はその後裁判沙汰に巻き込まれ
レーサーとしても終わってしまった。
また日本国内ではとてつもない速さを持っていた
鈴木利男選手
スポット参戦で終わり、
野田英樹選手は期待を持たせたが
マネジメント力がなく最後にはチームに騙されているような状況にまでなった。
無限ホンダの支援を受けた
中野信治選手
全くF1ドライバーとしての力量に欠け、期待の
高木虎之介選手
所属チームが破綻に近づいた時の参戦になり全く力を出せずに終わってしまった。
しばらく日本人ドライバー参戦がなかったのだが
2002年イギリスF3チャンピオンになった
佐藤琢磨選手が登場し
一気に状況が変わった。史上最速の速さと
そのドライバーとしての力量で新たな局面を開いたのだった。
2004年には表彰台にのり、そのうえ日本人初のフロントロウに並ぶ
という快挙も成し遂げた。また中嶋悟氏の息子である中嶋一貴選手
がなんといきなりウィリアムズというF1の名門チームから参戦する
ということも起こった。メーカーがドライバー育成に力を入れはじめているだけに
もしかすると日本人ドライバーが表彰台の中央に立つということが起こるかもしれない。
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